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名古屋地方裁判所 昭和53年(ワ)2259号 判決

原告

斉藤つゆ

金萬禮

右両名訴訟代理人

飯田泰啓

細井土夫

被告

医療法人楠会

右代者者理事

岩田博

右訴訟代理人

内河惠一

被告

医療法人愛生会

右代表者理事

石黒道彦

右訴訟代理人

後藤昭樹

太田博之

立岡亘

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは、各自、原告らに対して、各金九五〇万六三六七円と各内金九〇〇万六三六七円に対する昭和四九年一〇月六日から、各内金五〇万円に対する昭和五三年九月二一日から各支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  (原告らの身分関係)

訴外加藤良一こと呉良一(韓国籍、以下「良一」という)は、昭和二二年八月二四日出生し昭和四九年一〇月五日死亡したが、良一が死亡した当時妻子はなく、また生存している直系尊属は祖母にあたる原告両名のみであつた。

2  (良一の病状と本件事故の概要)

(一) 良一は、両親を失くした昭和三六年六月四日以降父呉吉成の弟、加藤成二こと呉萬在、加藤花子夫婦の許に引きとられて養育され、中学校卒業後、菓子製造店手伝やトラック運転手をしたり呉萬在の経営する水道工事を手伝うなどして生計を立てていた。〈以下、省略〉

理由

一(原告らと良一との身分関係)

〈証拠〉によると、請求原因1の事実を認めることができる。

二(良一の病状と本件事故の概要)

1  〈証拠〉によると、同2(一)の事実を認めることができる。

2  〈証拠〉を総合すると次の事実を認めることができ〈る。〉

(一)  良一は、加藤成二、同花子夫婦に引き取られたが、その家族との人間関係は円満ではなく、その家庭環境に馴染めないまま昭和四五年四月ころから人を避けて床下や天井裏で生活するような奇行が始まり、幻聴、幻嗅を覚えるほか、注察妄想(他人が自己を観察しているという妄想)、関係被害妄想(他人が自己と何らかの関りがあり、自己に危害を加えてくるのではないかとの妄想)が顕著となつたため、同年七月二九日楠病院で診察を受けそのまま同病院に入院した。良一の主治医は松橋俊夫医師とされ、仮診断名は精神分裂病と下された。

なお、楠病院の病棟、構内の建造物等所在関係、医師その他の職員の配置は別紙図面(一)(二)のとおり(但し、本件事故発生当時六階建新館はない)であり、六階建本館は、一階には外来診察室、検査室、事務室などが配置され、二階は開放病棟(社会復帰の前段階にある患者を収容する病棟。夜間は階段部分と廊下部分との間に設置された扉に施錠するが、昼間は開放されている。)、三階から六階までが閉鎖病棟(治療病棟。階段部分と廊下部分との間に設置された扉が常時施錠されている。)となつている。各病棟の各室は三階以上の各階に二室ずつある保護室を除いて施錠されることはない。総ベッド数は二四五床で、医師は常勤三名、非常勤六名、ケースワーカー二名、看護者約五〇名、その他事務職員等常時約五〇名が勤務している。

入院時、良一の症状は重く三階閉鎖病棟に収容されたが、右重度の精神症状は割合早期に消失した。しかし、病院内では精神状態が安定したものの、外出時には他人に恐怖感を抱くなど不安定な状態は継続していた。昭和四五年九月九日良一は二階の開放病棟に移され、保護者方への外泊や昼間近くの職場で就労させ、夜は楠病院に帰院させる院外作業(ナイト、ホスピタル)も取り入れられ、昭和四六年八月九日には主治医から退院を許可されるに至つた。しかし保護者らの希望によつて退院は延期され、昭和四七年八月二八日ようやく退院した。そして良一の病名は「躁うつ圏に近い敏感関係妄想」と確定診断された。

(二)  その後、良一は加藤成二の許に戻り、加藤設備の手伝をしながら通院していたが、加藤夫婦との折り合いが悪く、症状は悪化し、投薬量も増加の傾向を辿つたもので、良一は昭和四八年二月一四日加藤夫婦の許をとび出して楠病院に再度入院した。良一は開放病棟に収容され、約一週間で落着きを取り戻し、同年六月八日から院外作業に出るようになつた。しかし、翌九日には院外作業から逃避したい衝動に駆られるなど不安定な精神状態になつたため、本人の希望で当直医により三階の閉鎖病棟預りの措置がとられた。

楠病院の閉鎖病棟においては、院外作業は実施されず、生活面の規律も緩やかである。同月一一日良一は主治医の指示により開放病棟に戻された。しかし、良一のその後の精神状態は必ずしも安定せず、抑うつ的状態に陥つたりした。昭和四九年六月五日から良一に対して再び院外作業が実施され、症状回復状況が良好であつたため、外泊が許可される回数も増え、同年九月初旬には主治医から退院を許可してもよい旨の判断が示された。しかし、退院するには就職先を決めるなど退院後、良一を受け入れる態勢を作り出す必要があつたため、良一が外泊した際、加藤夫婦に来院して相談するよう良一に数回に亘つて言付けていたにも拘らず、同夫婦から楠病院に対する連絡は全くなく、良一は焦燥感を抱き、他人を意識し、易怒的になるなど不安定な精神状態も顕出し始めた。同年一〇月二日主治医である松崎医師が良一を問診したところによると、良一は二、三日院外作業を休んでいるとのことで完全に安定した状態ではなかつた。

翌三日午前九時ころ、良一は開放病棟からそのまま無断離院して以前稼働していたことのある製菓業者神山基博方を訪れ、近日中に楠病院から退院できる見通しであることを伝え、退院後同人方に雇入れ方を要請した。神山は良一の要請に対して即答を避け、加藤夫婦と相談するように言い聞かせ、夕刻良一を伴つて加藤方に赴いた。加藤夫婦は楠病院に電話連絡し良一の来訪を伝えたが、病院側は良一の帰院を指示した。なお、同日病院側は良一の無断離院に気付いて後、警察署に捜索願を提出するとともに、良一が立ち寄る可能性のある場所に電話で所在確認をし、同人が立ち寄つた場合の連絡方を依頼していた。同病院の右指示に基づき、同日午後九時ころ良一は加藤夫婦、神山に伴われて帰院した。ところがこれに対し、当日の当直医は、その判断により、良一を三階の閉鎖病棟預りの措置をとつた。しかし帰院した際の良一に別に興奮した様子はなく、黙つたままであつたが、加藤成二或いは神山から同病院の婦長が聞いたところによると、良一は加藤夫婦や神山に対し開放病棟の患者が自分の悪口を言つているとか、同病棟の主任看護者が自分を馬鹿にするので殴つてやりたいとか、閉鎖病棟に収容されるのは嫌だとか言つていた由であつた。かようなことがあつて、翌四日良一は正式に三階閉鎖病棟に収容されることになつたが、医師の診察に対して胃痛を訴えたのみで、特段精神状態等に異常は認められなかつた。(帰院の際良一が病院側に対して、閉鎖病棟に収容されるならば絶対に逃走する旨言明したという原告らの主張は、本件全証拠によるも認めることはできない。)

(三)  楠病院においては、雨天時など運動場の状態の悪いときを除いて午前八時四〇分ころからラジオ体操が励行され、同病院の全入院患者のうち重症者、老人、歩行困難な者を除外して二〇〇人近くの者が右体操に参加していた。病院側からは約六〇人程度の職員が右体操に参加し、各病棟ごとに並んだ患者の周囲を各病棟の看護者がその付近で見守る形で位置していた。当時、運動場の周囲は柵が張りめぐらされ、運動場から直接院外に出ることができるのは別紙図面(二)のうちの三か所の開き戸だけであつたが、は常時、は随時施錠され、は開放病棟の患者や職員がソフトボールをする際、院外に出たボールを取りに行く便宜や患者に対して開放感を与えるなどの理由で昼間殆んど施錠されることがなかつた。従前、楠病院から患者が無断離院した例は二件程度あつたが、ラジオ体操中であつたかは明確ではない。

同月五日楠病院側は日課に従つてラジオ体操を実施したが、その際、良一は施錠されず、また職員が付近に配置されていなかつた前記開き戸から無断離院を図り、別紙図面(一)記載の赤線の方向に逃走した。その直後、右逃走に気付いた看護人数人が良一を刺激することのないように適度の距離を保ちながら同人を追尾したが、同人は国道四一号線バイパスに至り、一旦、同バイパスを東から西に横断し、同所歩道上を南下しているうち突然同歩道上から身を乗り出す形で右バイパスに飛び込み、前記図面×地点においてたまたま同所を走行中のバスに轢かれて頭部打撲、脳挫傷、頭蓋底骨折の傷害を負い、同月六日午前八時五〇分ころ上飯田第一病院において右負傷により死亡した。

三(楠病院側の過失責任の有無)

1  抗弁1について

(一) 前記認定事実によると、昭和四九年一〇月三日良一が無断離院した理由は退院の前提となる就職先を決めることにあつたものと認められるところ、当日良一から雇用方の要請を受けた神山は同人に対して加藤夫婦と相談するように促したのみで雇入れを承諾する態度を示さなかつたし、加藤夫婦に至つては楠病院側の度々の来院要請に応じなかつたばかりか、良一の就職先を決めるための尽力をした形跡は全くないのである。周囲の者のこのような冷たい態度が良一の右無断離院を招来したと解される状況であつたから、良一をそのまま開放病棟に収容すると同人は独りで就職先捜しを決意し、再度無断離院をしかねない状態に置くことになると病院側において判断したと推認することができる。

そのうえ、同日良一が帰院した際、楠病院側が神山或いは加藤成二から聞いた良一の言動によると、良一は関係被害妄想的徴候を示し、開放病棟の人的関係を好ましいものと感じていなかつた様子も窺われたのであるから、良一を開放病棟に収容することをやめ閉鎖病棟において経過を観察する必要があると判断されたものと認められ、楠病院側が閉鎖病棟に収容したことは適切な措置であつたというべきであり、この点につき楠病院側には帰責事由はないと認められる。

(二) 一〇月三日良一が楠病院に帰院して後の精神状態等に特段異常は観察されなかつたこと、同月五日ラジオ体操中に施錠されず、また付近に職員の配置がなされていなかつた開き戸から良一が無断離院したことは前記認定のとおりである。

ところで、精神病の治療は患者の社会復帰を最終目的とするものであり、症状が快方に向つていると判断されるならば、極力社会生活に近似した形の開放処遇を施すことが好ましいとされる。そのため、精神病院内には重症患者から社会復帰直前の患者まで様々な症状段階にある患者が収容されているのであるから、閉鎖的環境、処遇から開放的環境、処遇まで病院の機能として整備されていなければならない。したがつて、病院全体を閉鎖的環境にすることは避けなければならず、具体的に閉鎖的環境と開放的環境をいかに調整配置するかは合理的な範囲を逸脱しない限り病院の治療方針に委ねられるべき性格のものである。もちろん、具体的に危険の蓋然性が高い場合には右危険に対処する措置が講じられなければならないことはいうまでもない。

しかし、楠病院の運動場周囲に張られた開き戸を常時施錠したり、患者の運動中常時開き戸付近に職員を立たせて患者を監視することは病院全体を閉鎖的環境に置くことになりかねないので、施錠されていない開き戸があり、またその付近に職員を配置していなかつたとしても、無断離院者を直ちに発見しうる態勢がとられていた限り楠病院側に委ねられた合理的治療方針を逸脱したものとはいえない。そこで良一が一〇月五日再度無断離院し、本件死亡事故に至ることが予測されたか否かについて判断するに、そもそも無断離院が常に必ず交通事故を招来するものでないことは、同月三日現に良一が無断離院した際にも無事帰院していることから明らかであり、また前記認定事実に徴すれば、本件死亡事故は良一の自殺によつて惹起されたものではないかとの疑いも払拭しきれない。この点はしばらく措くとしても、一〇月三日良一が帰院して後、更に再度無断離院を企てるなどの徴候が窺えたのであれば格別、前記認定のとおり良一の言動に異常はなく一〇月四日は何事もなく経過したのであるから、良一が一〇月五日のラジオ体操の際、無断離院を図ることを予測しうる状況にあつたとは到底いえない。したがつて、右ラジオ体操中に良一の逃走を防止するため柵の開き戸に施錠し、右開き戸付近に職員を配置しなかつたとしても、前記認定のように無断離院者を直ちに発見しこれを追尾しうる態勢にあり、現に良一を監視しながら追尾したのに同人が予期に反した行動に出たのであるから、楠病院側に帰責事由はないと認められる。

(三)  原告らの主張は、良一が無断離院を図ることが予想される患者であつたことを前提とするものであるところ、これを予想しえなかつたことは前項で判示したとおりであり、前説示のように、できる限り開放処遇が望ましいのであるから、被告医療法人に帰責事由は存しないと認められる。

2  請求原因3(二)、(三)について

前記認定のとおりであるから本件においては、そもそも楠病院側に原告が主張するような注意義務があるとはいい難く、したがつて楠病院側に過失があるとは認められない。

四(結論)

よつて、その余の点について判断するまでもなく原告らの本訴請求はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(小川正澄 金馬健二 竹中良治)

〈図面省略〉

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